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戦後中国(中華人民共和国)のまとめ 年表と対立の構図

第二次世界大戦後の中国(中華人民共和国)を、4本の柱から順に細かくしていく順序木で整理します。レベル1の4つの年号を先に固め、レベル2、レベル3へ進んでください。基礎問題精講 テーマ40対応。

全体像 4本の柱(レベル1)

毛沢東の時代 1949–1976
鄧小平の時代 1978–
毛沢東の時代1949① 建国内戦に勝った共産党が中華人民共和国をつくる
毛沢東の時代1958② 大躍進急ぎすぎた増産運動。大量の餓死者で失敗
毛沢東の時代1966③ 文化大革命毛沢東の逆襲。10年の大混乱
鄧小平の時代1978④ 改革・開放経済は自由化、政治は共産党独裁

起承転結で読む

  1. 起
    内戦に勝って国をつくる日本の敗戦後、国民党と共産党が再び内戦。勝った共産党が人民政治協商会議を開き、1949年に中華人民共和国を建国。
  2. 承
    急ぎすぎて大失敗ソ連のまねで工業化。1958年の大躍進と人民公社で餓死者多数。毛沢東は国家主席を劉少奇に譲る。ソ連とも仲が悪くなり援助が止まる。
  3. 転
    毛沢東の逆襲=文化大革命1966年、毛は紅衛兵を使って劉少奇らを「実権派」と攻撃。国中が大混乱。毛の死後、華国鋒が四人組を逮捕し、1977年に終結。
  4. 結
    鄧小平が経済を立て直す1978年に鄧小平が実権。四つの現代化と改革・開放。政治は共産党、経済は市場という形が1993年の社会主義市場経済。

折り返し点 1976 → 1978 の2年

1976.9毛沢東死去
1976.10華国鋒が四人組を逮捕
1977文化大革命の終結
1978鄧小平が実権

華国鋒は「毛主席の決めたことはすべて守る」立場で、路線は変わらなかった。本当の転換は1978年。「毛の死後すぐ改革・開放」は誤り。

レベル2 各柱の中の順序

4本柱それぞれに3〜4個の出来事。左の年号を隠して言えるかを確認する。

① 建国 1949毛沢東の時代
1949建国宣言人民政治協商会議 → 中華人民共和国。蔣介石は台湾へ
1950中ソ同盟中ソ友好同盟相互援助条約(仮想敵は日米)/朝鮮戦争
1953第1次五カ年計画ソ連の指導で重工業化
② 大躍進 1958毛沢東の時代
1956中ソ対立の始まりソ連共産党第20回大会の平和共存に毛沢東が反発
1958大躍進第2次五カ年計画・人民公社 → 餓死者多数で失敗
1959劉少奇の調整政策劉少奇が国家主席/チベット反乱/中ソ技術協定破棄
③ 文化大革命 1966毛沢東の時代
1966文革開始紅衛兵が劉少奇・鄧小平を実権派(走資派)として攻撃
1969中ソ国境紛争ダマンスキー島(珍宝島)で撃ち合い
1971–72米中接近国連代表権獲得 → ニクソン訪中 → 日中国交正常化
1976毛沢東死去第1次天安門事件/華国鋒が四人組を逮捕 → 1977 終結
④ 改革・開放 1978鄧小平の時代
1978鄧小平が実権改革・開放、四つの現代化
1989第2次天安門事件胡耀邦の死 → 民主化運動を武力弾圧/中ソ和解
1993社会主義市場経済政治は共産党独裁、経済は市場原理
1997香港返還一国二制度(1999 マカオ返還)
この段階でつなげる因果

大躍進の失敗 → 毛が国家主席を劉少奇に譲る → 文化大革命で劉少奇らに逆襲

ソ連の平和共存に毛が反発 → 援助停止 → 大躍進の失敗に追い打ち

ソ連と撃ち合った中国 → 敵の敵のアメリカに接近(1971–72)

レベル3 ① 建国 ② 大躍進

1骨格 2主要な出来事 3細部 数字はキーワード記述クイズのレベルと同じ
① 建国 1949 内戦から中ソ同盟まで
31945.8日本が降伏。共通の敵が消え、国民党(蔣介石)と共産党(毛沢東)の主導権争いが激化
31946国共内戦が再開。初めは米国の支援を受けた国民党が優勢
31947共産党が中国土地法大綱。地主の土地を農民に分けて味方につける
21949.9人民政治協商会議。国名・首都・政府と臨時憲法(共同綱領)を決める
11949.10.1中華人民共和国成立(主席 毛沢東・首都 北京)。蔣介石は台湾へ逃れ、台北で中華民国を続ける
11950中ソ友好同盟相互援助条約。日米を仮想敵国とする
21950朝鮮戦争(〜53)。人民義勇軍を送り国連軍(米軍)と戦う
31950土地改革法。地主の土地を没収し農民に分配(のち人民公社で所有権は否定)
21953第1次五カ年計画(〜57)。ソ連の指導で重工業化と農業の集団化
31954ネルー・周恩来会談 → 平和五原則
② 大躍進 1958 中ソ対立と急進路線の失敗
21956ソ連共産党第20回大会でスターリン批判・平和共存 → 毛が反発し中ソ対立が始まる
11958大躍進(第2次五カ年計画)。農村に人民公社(生産・行政・教育を一体化)→ 2千万〜4千万人の餓死者
21959劉少奇が国家主席に。調整政策で自由な経済活動を一部復活
21959チベット反乱 → ダライ=ラマ14世がインドへ亡命 → 中印国境紛争(〜62)
31959ソ連が中ソ技術協定の破棄を通告
31960ソ連が経済援助を停止し、技術者を引き揚げ → 大躍進の失敗に追い打ち
この範囲のひっかけ
  • 共産党の初代委員長は陳独秀(毛沢東・孫文・蔣介石ではない)
  • 建国を決めたのは人民政治協商会議。全国人民代表大会は1954年から
  • 中ソ技術協定は1959年に通告、1960年に援助停止。どちらの年でも問われる

レベル3 ③ 文化大革命 ④ 改革・開放

③ 文化大革命 1966 毛の逆襲から終結まで
11966プロレタリア文化大革命。紅衛兵が劉少奇・鄧小平らを実権派(走資派)と攻撃
21969中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島=珍宝島)
21971国連代表権が中華人民共和国へ。中華民国は国連から追放
21972ニクソン訪中(米中和解)/日中国交正常化(田中角栄)
31976.1周恩来死去
31976.4第1次天安門事件。周恩来追悼を弾圧 → 鄧小平が失脚、華国鋒が首相に
11976.9毛沢東死去
21976.10華国鋒が四人組(毛の妻江青ら)を逮捕
21977文化大革命の終結宣言。鄧小平が復帰
④ 改革・開放 1978 経済は自由化、政治は独裁
11978鄧小平が実権 → 改革・開放。四つの現代化(農業・工業・国防・科学技術)
31978日中平和友好条約
31979米中国交正常化
31980年代人民公社解体・生産請負制・経済特区で外国資本を導入
31984香港返還協定(サッチャーと鄧小平)
31987総書記の胡耀邦を解任 → 後任は趙紫陽
31989.4胡耀邦死去 → 学生が民主化を求めて天安門広場へ
21989.5ゴルバチョフ訪中 → 中ソ和解
11989.6第2次天安門事件。人民解放軍が武力弾圧 → 趙紫陽解任、江沢民が総書記
21993社会主義市場経済(共産党独裁のまま市場原理)
21997香港返還(イギリスから、一国二制度)
31999マカオ返還(ポルトガルから)

対立の構図1 共産党 対 国民党

勝った側が大陸、負けた側が台湾へ。

中国共産党指導者毛沢東基盤農村の支配地域勝因地主の土地を農民に分け、農民を兵力にした
中国国民党指導者蔣介石基盤中華民国の政府、米国の支援敗因腐敗とインフレで人々の支持を失った
1937–45日本と戦う間は協力
1946共通の敵が消え内戦再開
1949共産党が北京・南京を制圧
大陸 1949.10.1〜中華人民共和国(北京)
台湾 1949〜中華民国(台北)

1971 国連の中国代表権 中華民国 → 中華人民共和国(中華民国は国連から追放)

対立の構図2 毛沢東 対 劉少奇・鄧小平

急進の毛沢東と、立て直し役の実権派。

年
毛沢東(急進)
劉少奇・鄧小平(実権派)
1958
大躍進を号令 → 失敗
1959
国家主席を譲る
劉少奇が国家主席、調整政策
1966
文化大革命で逆襲(紅衛兵)
「実権派(走資派)」と攻撃され失脚
1969
劉少奇は獄中で死去。鄧小平は党籍を残され地方の工場へ
1973
鄧小平を呼び戻す
鄧小平が復帰し立て直しを進める
1976.4
鄧小平を再び解任(四人組が後押し)
第1次天安門事件の黒幕とされる
1976.9
死去
1978
鄧小平が実権 → 毛の路線を終わらせる

文化大革命は、動機は国家主席の座をめぐる政争、名目と規模は思想運動。毛が「控え」として残した鄧小平が、毛の死後に毛の路線を終わらせた。

対立の構図3 中国 対 ソ連(とアメリカ)

同盟 → 対立 → 衝突 → 和解。ソ連と遠ざかるほど、アメリカに近づく。

中国とソ連 中国とアメリカ
毛沢東の時代 鄧小平の時代 友好 中立 敵対 1950 1960 1970 1980 1990 1950 同盟 1956 第20回大会 1960 援助停止 1969 珍宝島で衝突 1989 和解 1950 朝鮮戦争で敵対 1972 ニクソン訪中 1979 国交正常化
関係の良し悪しを線の高さで表したイメージ図(数値ではない)。横にスクロールできます。
1950〜同盟共通の敵はアメリカ。ソ連の援助で国づくり
1956〜対立ソ連の平和共存を毛が「裏切り」と反発。1959–60 援助停止
1969衝突国境で撃ち合い。中国は敵の敵アメリカへ(1971–72)
1989和解ゴルバチョフ訪中。翌月に第2次天安門事件

和解には両側の変化が必要だった

中国側毛沢東の死(1976)

対立の原因は毛の思想上の反発。鄧小平の中国は1979年に自らアメリカと国交を結び、ソ連を思想で責める理由が消えた。

ソ連側ゴルバチョフ(1985〜)

中国が求めた三つの障害を取り除いた。国境の大軍/アフガニスタン侵攻(撤退)/ベトナムのカンボジア占領への支援。

決めるのは人、決める材料は国の利害。一人に権力が集まった国ほど、指導者の感情がそのまま国の行動になる。

人物の交代 鄧小平はオーナー、総書記は監督

〜1976.9毛沢東
側近の四人組(江青ら)が文革を主導
1976–78 つなぎ華国鋒
毛が選んだ後継。四人組を逮捕、文革を終わらせる
1978〜 裏の最高実力者鄧小平
肩書きは人に任せ、後ろから決める
表の顔=総書記(鄧小平と長老が立て、替えた)
胡耀邦〜1987 解任。学生運動に寛容すぎた
趙紫陽1987–89 解任。武力鎮圧に反対
江沢民1989〜。上海で学生運動を抑えた

短命の3人は線を外れて倒れた。華国鋒は毛路線を守り「古すぎた」、胡耀邦と趙紫陽は政治の自由化に寄って「進みすぎた」。鄧小平の線は「経済は自由化、政治は独裁」。

二つの天安門事件 同じ型、鄧小平の立場が逆

第1次 1976.4
第2次 1989.6.4
きっかけ
周恩来の死を悼む
胡耀邦の死を悼む
集まった人
北京の一般市民
学生(のちに市民も)
求めたこと
追悼が四人組批判に変わる
民主化と幹部の腐敗追及
弾圧した側
四人組側。民兵と警察が排除
鄧小平ら長老。人民解放軍が鎮圧
鄧小平
弾圧された側(黒幕とされ失脚)
弾圧を決めた側
その後
1978年に評価が逆転し名誉回復
趙紫陽解任、江沢民へ。評価は今も変わらず

入試のひっかけ

  • 第1次天安門事件は文革の末期(1976)。「初期」は誤り
  • 毛の死後「すぐ」改革・開放ではない。1976 死去 → 1977 文革終結 → 1978 鄧小平
  • 四つの現代化=農業・工業・国防・科学技術。サービス業は入らない
  • 改革・開放(「解放」は誤字)。下線「修正主義者」=実権派(走資派)
  • 1959年の国家主席は劉少奇。1978年に実権を握ったのは鄧小平(趙紫陽・江沢民はその後)