自由党と立憲改進党がつぶれてしまった最大の原因,それはやはり松方財政にあると断言していいでしよう。
当時、政府の財政を担当する大蔵省の長官を大蔵卿といいました。
1881(明治14年)、その大蔵卿に就任したのが,薩摩出身の松方正義で,彼が進めた急激な財政改革を松方財政とよびます。
ちなみに,1885(明治18)年には内閣制度が始まり,松方もそのまま大蔵大臣に移行していきます。
では,これから松方財政について話していきますが,その前に,なぜ政府が財政改革を行わねばならなかったのかを簡潔に説明したいと思います。
明治政府は,戊辰戦争の戦費を主に豪商からの御用金と不換紙幣でまかないました。
不換紙幣という語句について補足しておきます。貴金属の金と銀,これを正貨といいます。
この正貨と額面どおりに交換できる紙幣を兌換紙幣といい,交換できないものを不換紙幣とよぶのです。
たとえば,1万円の兌換紙幣。これは,1万円分の金や銀が確実に手に入ることを保証している紙幣です。
しかし不換紙幣はそうはいきません。1万円と紙幣の表に印刷されていても,不換紙幣のほとんどは,実際の価値はそれより低いのです。
どうしてそうなるのか。兌換と不換の違いはどこにあるのか。
それは,正貨準備がなされているかどうかの違いです。
兌換紙幣を発行するには,かならず発行元は発行額と同じだけの金や銀をたくわえてから発行するのです。
そうした正貨のたくわえが,不換紙幣にはありません。あるいは,備蓄が不十分なのです。
つまり,いざというときに,金銀との交換を保証されない紙幣だから,不換紙幣というのは信用がなく,価値が低いのです。
信用という言葉が出てきたのでついでにお話しますと,不換紙幣というのは信用が命です。
発行元の国家の信用によって,その価値が大きく上下するからです。
発行元が信用のおける,または将来性のある国家なら,紙幣相場(不換紙幣の価値)は実際の兌換紙幣とほとんどかわりありません。
それでは,当時の日本はどうだったでしようか。
いうまでもなく,まだ生まれたばかりの近代国家でした。
だからどうしても,国際経済のなかでは,その紙幣(円)の価値は低くなりがちだったのです。
まして明治政府は,戊辰戦争のときに不換紙幣を大量に乱発し,それが巷にあふれていましたから,ますます価値は下がってしまっていました。
政府もこうした状態では,国際経済に立ち向かえないことは知っていました。
しかしながら国家財政は火の車,まさにぎ借金地獄です。正貨をたくわえるなんて,到底不可能でした。
そこで発想を180度かえて,政府は民問の資本を利用しようとしたのです。
具体的にいうと,民間の財力をもって政府の不換紙幣を回収させ,なおかつ兌換紙幣を発行させようとしたのです。
なんとも他力本願なやり方ですが,こうしてできたのが,渋沢栄一が中心となって定めた国立銀行条例(1872〈明治5年)です。
この法律は,アメリカのナショナル・バンクの制度を模倣してつくったので,その名をそのまま直訳して国立銀行としましたが,いま述べたように,民間の資本家や富豪に銀行をつくらせ,兌換紙幣を発行させようという目的のもとに制定したもので,国立の銀行をつくるための法律ではないことに注意してください。
この法令によって,最初に設立されたのが第一国立銀行です。
ところが,そのあとに続いたのはたった3行だけでした。
というのは,銀行を創設しても絶対にもうからないことがわかったからです。
国立銀行条例では,「銀行は,兌換紙幣を発行しなくてはいけない」と義務づけられていたので,各銀行は兌換紙幣を発行しましたが,出すそばから紙幣がすぐに銀行に舞いもどってきて,正貨と交換されてしまうという現象が起き,備蓄していた正貨が底をついてしまい,どの銀行也経営難に襲われてしまったからです。
これでは,誰も銀行など設立するはずがありません。
そこで政府は仕方なく,兌換制度の確立のほうはあきらめ,とりあえず金融市場を育てようと,1876(明治9),年,国立銀行条例を改正して兌換義務を廃止したのです。
すると今度は、資本を持つ承認や地主、さらには金録公債証書で出資する華士族らによって,統々と銀行が設立されるようになりました。
このため,銀行の数があまりに多くなり,かつ,それらの銀行が不換銀行券(不換紙幣)を発行したためインフレーシヨンが激しくなり,ついに政府は1879(明治12)年の第百五十三国立銀行を最後に,銀行の新設にストップをかけざるを得なくなりました。
ところで,政府は国立銀行条例を制定する前年の1871(明治4)、新貨条例を発布して幕府の金·銀·銭という通貨制度をあらためています。
これによって十進法の円・銭・厘を単位とする新硬貨をつくることになりました。
その翌1872(明治51年には,新しい政府紙幣も発行されています。
いちおう新貨条例では,金本位(金を正貨として1円を金1.5グラムと兌換する)制度をたてまえとしましたが,先述のように,兌換制度は確立できておらず,実際の開港場では姜囂の際,銀貨(1円貿易銀貨)が使われていましたから,どちらかといえば銀本位に近かったといえます。
それに,新たな政府紙幣というのも完全な不換紙幣でした。
明治初年以来,日本は輸入超過の状態が続いており,その結果,正
貨(金·銭はどんどん海外ヘ流出していました。そうしたこともあって,正貨を備蓄するどころか底をっくような状態になっていて,結局,政府は兌換制度を確立できないでいました。
できないどころか,その後,ますます金融システムは混乱してしまいます。
なぜなら,1877(明治10)年に政府は天文学的な量の不換紙幣をふたたび乱発してLまったからです。
その理由,想像がつきますね。
そう,西南戦争の勃発です。この大戦争の発生で,莫大な戦費が必要になり,それを不換紙幣の乱発で補ってしまったのです。
政府は,戦いでは勝利をつかみましたが,戦後,大量の不換紙幣が巷にあふれ,財政のほうが瀕死の状態になりました。
国立銀行の不換銀行券(不換紙幣)の発行,西南戦争時における不換紙幣の急増で貨幣(円)の価値はー気に下がり,これに反比例Lて物価のほうが急上昇していきました。
すさまじいインフレーシヨンとなったのです。
この物価高状態を止めるためには,政府が巷にあふれる不換紙幣を手当たりしだいに市場からかき集め,これを処分して消してしまうしか
ありません。
石ころに価値がなくてダイヤモンドに価値があるとされるのは,ダイ
ヤモンドが筵禁に落ちていないからです。単純なことですが,数が少な
く,手に入りにくいものは値段が高いという経済の法則があります。
きLよう
っまり,あふれている不換紙幣の数をヘらL,希少なものにしよう
ばっ
という政策が,1881(明治141年に大蔵卿になった松方正義(薩摩閥)の
基本政策,すなわち松方財政なのです。
ただ,この政策を最初に進めたのは,松方ではありませんでした。な
んと,大隈重信なのです。大隈は1873(明治61年10月から1880(明治
131年3月に轟荏するまで,大蔵卿として政府の財政を箍,ていたので
す。彼は西南戦争で不換紙幣の乱発を条藻なくされましたが,1880年
より積極的に紙幣整理に着手LまLた。
しゆぞうぜい
同時に酒造税などを値上げL,1880(明治13l帆もうけの少ない官
がL,そく
宮事業の払下げを決め,工場払下げ船、1」を公布Lて,民間商人に官営事
業を売り渡そうとしました。これも,回収した利益で紙幣整理を行うの
が目的です。LかL,政府は握缶した額はし,かり取り戻そうと考え,
払下げの条件を厳L〈
くいきませんでした。
この方針は大隈の部下で大蔵卿に竇荏した蠡舜耕罠に引き継がれ,
さらに松方正義ヘと受け継がれていったのです。っまり,松方財政は大
隈のやり方を露竇しただけなのです。
LかLながら,松方の紙幣整理は大隈に比較して徹底していましたか
Lたので,なかなか買い手が集まらず,結局うま
ら,紙幣の価値はみるみる上が¢),物価のほうは〈°んぐん下がっていき
ました。経済用語でいうデフレーシヨンですが,松方財政によるデフレ
ーシヨンをぞくに「松方デフレ」とよびます。
松方は,酒造税·起草税などの増税や新税による増収分,それに徹底
的な経善爺識(よ,て浮···。,紙幣整理と正貨準備にあてました。
こうして数年間で,世の中から約4000万円を消し去ることに成功し,
正貨をたくさんたくわえたため,政府の財政は好転したのです。
1882(明治151年には銀行の銀行(中央銀行)といわれる日本銀行を設
立し,翌年には国立銀行から紙幣(銀行券)発行権を取り上げ,正貨(こ
のときは銀貨)と不換紙幣の価値がほとんど同じになった1885(明治18)
似日本銀行は銀と兌換できる銀行券(紙幣)を発行し始めました。また,
翌年からは政府紙幣も銀と兌換するようにし,ようやくここに銀本位制
度が確立しました。ちなみに,はじめての日本銀行の紙幣の苜鬣は,
芙熏癸だ,たといいます。
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